日刊スポーツ東京本社で競馬記者を募集していた。私事につき恐縮だが、このたび最終選考の結果が出て不採用となったので、これを機に、選考のために提出した作文の全てを掲載する。
『私と競馬
動物が好き、という人は信用できない。
その人が筋金入りのベジタリアンであったなら話は別だが、大概の人間は動物の死骸を喰らって生きながらえているのである。食べるということは殺すということだ。我々の食楽を達成するために、日々大量の家畜が殺されている事実から無意識的に目を背け、
「馬って可愛いよね。わたし、動物とか好きなんだぁ。」
と言ってのける人には気をつけた方がいい。
偉そうに述べている私も、馬が好きです、と言ったことがあるが、そこに心は無かった。致し方なかったのである。
合コンで異性と知り合い、そのぎこちない会話のなかで、趣味は競馬だと伝えたときに聞かれたのである。
「競馬が好きなの?馬が好きなの?」
ごく近い将来に一物を挿し込みたく思っている相手である。ここは真実など必要ない。とにもかくにも受けが良さそうな方を選んでしまったのだった。そして返ってきた言葉が上述の通りだ。
劣情に押し切られて無様な嘘をついた10年前の自分を、性交できなかった結果と共に思い返すのは未だにとても辛い。
もちろん実際のところは競馬が好きだ。馬券が好きと言ってしまうと極論に過ぎるが、あながち間違ってもいない。自分の意思が全く通じそうも無い馬という相手に、自分の血ともいえる財を託すのである。何を考えているのかわからない獣と運命を共にしていく。そこに絆は無い。しかし、馬券から伸びた見えない運命の糸は、脆くも儚くも、確かにその馬と私に繋がっている。その糸はレースが終わった後に具現化する。私が買ったから5着に沈んだ、買わなかったから2着に突っ込んできた、といった不思議な理屈に姿を変えて語られるものだ。
もちろん本当に馬と運命を共にしているのは、競走の瞬間は騎手であり、馬が生まれてから発走に至るまでは牧場や厩舎の関係者だろう。
しかし、ゲートが開いてからゴール板の横を駆け抜ける間は、我々、勝馬投票券を買った全員もまた、競走馬と心中しているのである。それぞれの夢や希望が詰まった、血と汗に塗れた金銭的な運命の糸は、競走馬1頭1頭と結ばれている。それらは鉄のにおいがし、御世辞にも錦糸とは見まごうことが出来ない、泥臭くもか細い糸である。馬が首を上げさげする度に、錆色の糸は絡まり合い、それら自体に意思でも宿ったかのような動きを魅せる。時には騎手のステッキを叩き落すし、追い込み馬に尻に強風を浴びせて牛蒡抜きさせることもある。それぞれのレース結果は、糸が紡いで出来上がる。1つとして同じレースが無いのは、こういった理屈ではないかと思っている。
競走馬は馬券のために生きているのである。軍需産業としての馬産は廃されて久しいが、20世紀後半からのサラブレッドは、単勝馬券になるかどうかに馬生の全てがかかっている。余程の良血でもない限り、大きいレースを勝てなければ、牡馬は子孫を残すことすら許されていない。その一方で牝馬は、意思に関わらず毎年の出産が半ば義務付けられているという、引退しても極めて不自由な生活が続くのである。それもこれも、より強く速く、より勝てる馬を生産するためで、つまりは、必ず馬券に絡む競走馬を作り上げるためだ。
無遠慮に、馬が好き、などと言ってのける人には違和感がある。障害競走は危険だから廃止にするべき、等とのたまう輩もいる。
中央の平地で通用しなくなった馬は、馬券になる可能性を求めて地方競馬に移籍するか、障害競走に挑む。もし障害戦が無ければ、平地で頭打ちになった時の選択肢が減る分、その馬は用途変更になるリスクが高まるのだ。出走機会が減ってしまうことにより、かえって身の危険が招かれるのである。
この世に馬そのものだけを愛する人が多いのなら、競馬などとうの昔、軍馬育成の終焉と共に廃れてしかるべきだったと思うのだ。
そうならなかったのは、大方の人々が馬よりも競馬を愛していたからである。愛とは、あくまでもレースの勝ち負けにこだわってきた人々の執念であり、馬券を当てるためだけの研究やデータ分析を続けてきた人々の情熱である。
私は、馬券を買うことによって競馬を愛している。馬券を通じて見えない糸で押したり引いたり、思う様に操れないままに奮闘するのが好きだ。
愛とは実に滑稽なものである。』
