本日のメインカード~官邸 V.S. 新聞社 60分一本勝負~


官房長官と東京新聞の記者が口げんかしている。マスコミ伝家の宝刀である「知る権利」の銘が入った大太刀を振り回す記者に、マスコミ各社は同調するような社説を掲載しているようだ。

菅氏、同じ回答繰り返さず 「答える必要ない」発言で(共同通信)

政治関係の問題は常に複雑だが、この件についても同様で、事の発端から今日に至るまでの経緯がやはり長いのである。数年来のいざこざだ。

もっと漫才みたいに面白くやってくれよ

どっちが悪いとかその辺りのところには余り興味がない。強いていえば、同じ男として官房長官の肩を持つだろう。煩い女は嫌いだ。

少なくとも現在のところ、マスコミ各社が危惧するような、戦時中の言論統制に似た状況下へは陥る気配がない。政治的権力を持っている側が、ブンヤの砦である記者会見場まで丸腰でノコノコとやってきて、痴話喧嘩に応じてくれる日本という国は、いま平和に沸いている。

マスコミが言論統制を危惧する?そりゃおかしいな

本当の危機は、そのマスコミが国民を裏切ることによって成立する。言論統制を実行するのは国ではなく、マスコミとネット管理者だ。時の政府は、思想信条の自由と基本的人権の剥奪を方針とするかもしれないが、その尖兵となって行動するのは、あくまでもマスメディアなのである。

国がマスメディアに情報を渡さないのではない。マスメディアが国民に情報を渡さなくなるのだ。何故なら、国にとって都合がいい情報についての取捨選択や、その宣伝と煽動方法、流すタイミングなど、何もかも全て政治家よりもマスコミの方が上手に決まっているからである。彼らは情報のプロフェッショナルだ。なけなしの300万円をかき集めて一発逆転、当たれば先生、落ちれば浮浪者というギャンブルを挑んだ阿呆どもに、繊細な情報戦など務まるわけが無いではないか。政府は、国が持てる情報の全てを参謀たるマスメディアに託し、マスメディアはそれをしっかりと抱き込んで、国民に与えないようにするのだ。

きっかけは様々あるだろうが、いざとなったら、決して政府は圧力をかけることなどせずに、マスメディアを静かに手なずけるのではないかと思う。学生時代からの友達であったとか、子供が同じ小学校に通っているだとか、そういった個人間のやりとりや、あるいは刹那的かつ金銭的な快楽の享受など、人間なんて意外と簡単に引っくり返って裏地を見せてしまうものだ。

今のように、マスコミが社説で官邸の仕打ちを批判してみたりする間は、「知る権利」の剥奪など起こりえないのである。 マスコミが起こさないからだ。 ある日、マスコミ連中が軒並みいっぺんに、政府からの贈答品、それも激烈な甘さを持つような禁断の果実を貰わない限り、言論統制は起こらない。

たまにやってる男女混合プロレスは、エロスばかり気になる。

つまり、マスコミ各社は、こんな程度のやりとりがいくら官邸で続いたところで、自らの地位が脅かされないことなど判っているのである。判っていて批判しているのだ。ショーともいえる。喧嘩の様相を呈しているので、もはやプロレスだ。決して頭を打たないように繰り出すDDTだ。実際には触れてすらいないフットスタンプだ。

マスコミに勤める権力者たちが、何かとてつもないものを甘受した時、この試合は誰にも知られずにドローとなり、曖昧な、霞がかかったような世の中が始まるのである。

死にたくないが、市民は常にあまりにも無力だから

「知る権利」は、マスメディアが自分で腐葉土に埋めてしまうのである。そしてそうなれば、次はヘドロの中から言論統制へのマニュアルを掘り出し、全社が足並みを揃えて実行するようになる。

国民は、既に権利を失っていることにさえ気付かず、大本営発表を事実として知ったと思い込み、死んでいくのである。

ひぐらしのなく頃に

国民が打つべき対策は、といえば、非常にしんどいものばかりだが、まずは、自分の目で実際に見たもの以外は簡単に信じない、という習性をつけることからだろうか。マスコミもネット検索も、なんらかの情報操作が入っているものと用心しておく習慣だ。ただ、キチガイになってしまわないように気をつける必要もあって、とにかくしんどいのである。


労働階級からの解放を志し、収入のアテもないのに突然脱サラ。後先考えないその姿勢に後悔しきり。

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