深海魚と睨めっこした様な小椋桂氏と、しゃくれてしまったのかもしれない井上陽水氏とが、情熱を振り絞り鬱屈した精神を凝り固めて作ったような詞曲。それが、「白い一日」である。思春期の青年が誰しも抱えそうな、出口の見えない苦悩を描いた作品として、多くの支持を得ているという。
果たして本当にそうだろうか。何しろ当時新進気鋭の、そして決して美形とはいえない異色のタッグが放った一作なのである。実際に細かく見極めていくと、年端もいかない少女を日々ストーキングしていた、性的嗜好の捻じ曲がった年齢不詳の男性像が如実に浮かび上がってきたのだ。
♪真っ白な陶磁器を♪
白色は、清潔、清楚といった印象を抱かせるが、こと「真っ白」となれば、純度の高い白色ということになる。清潔という文字の間に純度を押し込むと、清純と純潔になる。純潔とは処女を清楚に表現した言葉だ。そして「陶磁器」といえば、陶器にしろ磁器にしろ、気品が漂うことに変わりは無い高貴な器であるが、器といえば子宮であり、子宮といば女性である。つまり「真っ白な陶磁器」とは、気品が漂う高貴で清純な処女のことだったのだ。
♪眺めては、飽きもせず、かといって触れもせず♪
さて、処女を毎日見ているけれども、ちっとも飽きない、ということが語られる。ストーカーである。「触れもせず」とは、痴漢もであるまいし当然だろうが、この場合は、声などをかけることもなく、と解釈するのが自然だろう。
しかしそうなると、「かといって」がおかしい。眺めているだけで飽きないというのだから、かといって話しかけたりしない、というのでは文脈が通らない。前半が「眺めても、満たされず」という歌詞であったならしっくりくるが、そうではない。毎日ただただ眺めているだけで、ちっとも飽きが来ないだけだ。「かといって」はおかしい。
「触れもせず」が、もし文面通りの意味であったらどうだろう。気品が漂う高貴で清楚な、男を知らないであろう少女が通学している姿を、男は毎日飽きもせず、同じ停留所から同じバスに乗り、同じ駅から同じ電車の同じ車両に乗り、ただ眺めている。
そう詠んだとき、「かといって」という接続語にとてつもない説得力が出てくるのである。男は少女の近くにいるのだ。飽きもせずに毎日見つめている。それは、恋焦がれているからに他ならない。しかし、触ってはいけない。痴漢となれば一線を越えてしまう。実際のところ、付きまといもだめだが、痴漢は接触である。暴行や傷害に近い行為だ。これはいけない。
♪そんなふうにキミの周りで、僕の一日が過ぎていく♪
やはり男は「キミの周り」にいた。しかも「一日」中である。すぐ近くにいたのだが、しかし、卑劣な痴漢にまで落ちぶれることはなかった。「そんなふうに」と誤魔化して切り替えようとするあたり、自身の邪念を振り払おうとする意志すら感じる。
♪目の前の紙くずは、古臭い手紙だし♪
精子には遺伝子が詰まっており、その中には、男が先祖から受け継ぎ、洗練されてきた遺伝情報が記載されている。男は射精でもって、女性の卵子にその情報を伝え、新たな命に託すわけだが、その手段こそ性行為ではあるが、比喩的にいえば、それは手紙の送付ともいえる。
いま、男の目の前に「紙くず」がある。「古」「臭い」「手紙」だ。絶対に自慰行為の副産物だ。そうでなくてはならない。少女の子宮に投函することができず、紙くずと一体化してしまった精液に他ならない。
♪自分でもおかしいし、破り捨てて寝転がれば、僕の一日が過ぎていく♪
自慰後の男は不思議なもので、妙に冷静で、我に返るというか、なんだか性に夢中であったのが馬鹿らしく感じることがある。俗にネットスラングでは「賢者タイム」などと呼ばれているが、根っからの阿呆については、興奮した阿呆から放心した阿呆になるだけなので、このスラングはどうかと思う。
曲中の男も、何やってんだ俺は、と自嘲し、次いで自分への失望や嫌悪感でもって、自棄になって乾き始めたティッシュ破り捨てる。今日もオナニーで一日が終わってしまった。
正確には、少女を追い回してから自慰をする一日なのだが、男が定職にも就けず暇な日々を過ごしていることには変わりない。
♪ある日、踏み切りの向こうにキミがいて、♪
詞の構成としては、1番、2番が終わり、新たな展開が生まれる部分である。曲調もここで明確に変化する。
いつも付かず離れず、まとわりついていた男は、何かちょっとした油断で距離をとってしまったのであろう。慌てて追いつこうとするものの、「踏み切り」に阻まれてしまったのだ。この油断が命取りであった。
踏切は、遮断機が下りている限り、合法的には絶対に乗り越えることが出来ない。男は紳士、もしくは執着心と同じくらい臆病な心も強く、痴漢が出来ない存在であるから、警報機が鳴る踏切に進入することができない。
♪通り過ぎる汽車を待つ♪
「汽車」とは、本当に汽車なのだろうか。少女は、何を「待」っているのだろう。何をって、決まっているじゃないか、汽車だよ、汽車が通る踏切なんだ。しかし男は、踏切のこちら側で、原因のわからぬ焦りや恐れに翻弄されていることを自覚していた。この危機感はなんだろう。そもそも、今までこんなところに踏切などあっただろうか。
♪遮断機が上がり、振り向いたキミは、もう大人の顔をしてるだろう♪
予感のとおり、男にとって物凄く恐ろしいものが通っていったのである。黒光りする、とても長く逞しく、さらに白煙じみたものまでも先頭から噴出するそれは、「汽車」としか表現しようのない、肉の塊であった。少女は男の手と目が届かないところで、「大人の」女になってしまったのである。
もしこれが仮に、ただの踏切であり、汽車であったのなら、位置関係からして「振り向いたキミ」という文字列は不適切である。男から見た少女は、踏切の向こうで、汽車の通過を待ていたのだから、男と少女は向かい合わせになっている。遮断機が上がった後、元より対面状態の男に、少女が「振り向く」ことはできない。「顔を見せたキミ」や「渡り来るキミ」等とするべきである。
だからここは、現実的な踏切と列車の存在を認めるべきではないのである。あくまで比喩的に捉えることが正解ではないか。ついでにいえば、「遮断機が上が」るのは、姦通を受け、今まで得体の知れない男の性に恐怖し身を守るべく形成していた心の障壁が、撤廃されたということすらも意味してはいないか。
(井上版)♪この腕を差し伸べて、その肩を抱き締めて、ありふれた幸せに持ち込めれば、いいのだけれど♪
ここは、作詞の小椋桂氏と、先にレコードを出した作曲の井上陽水氏とで歌詞が異なる。もちろん正解は作詞担当の小椋氏版に違いないが、井上氏が意図的に読みを変えて世に出した可能性もある為、両方について考察したい。
意気地なしの男は、他の男に少女が寝取られてしまった今、もはや一刻の猶予もないとして、多少びっくりさせてでも実力行使に出るべきだ、と判断しているが、決意は出来ていない。何せ、「いいのだけれど」である。
「ありふれた幸せ」という謙虚さから、このストーカーの性分が伝わってくる。鬱屈しているが、決して悪人ではないのである。少女のために必死に働いて、慎ましくも暖かい家庭を築きたい、という控えめかつ純朴な理想を持っているのだ。
しかし、純朴がゆえに、切羽詰った若者がもつ危うさ、暴力的な行動にでる恐れを感じさせる。根が臆病であるがゆえに動けない。皮肉にもそのことが、彼の人生を闇から救っている。
(小椋版)♪この腕を差し伸べて、その肩を抱き締めて、ありふれた幸せに、落ち込めればいいのだけれど♪
一方、小椋氏が書いた男は、井上氏の男よりも一段と内向的で、悩み深く、問題解決の糸口すら全く見出せていないし、見出す気がない。
まずここでの「その肩」は、男自身の肩を指している。「差し伸べ」られた腕は、自分の肩を「抱き締め」てしまう。寂しさへの我慢、どうにもならない不運への忍耐、そういった想いが姿かたちに現れている。
「ありふれた幸せ」は、いま他者に姦通されてしまった少女のことを忘れ、どこかの誰か、適当な女と見合い結婚する、ということを意味している。「ありふれた」という表現に、こんなはずじゃなかった、あの少女と一緒になれてさえいれば、こんなはずじゃ、という後悔の念を強く感じさせる。「落ち込めれば」という言葉が、止めを刺しに来る。少女を失った彼にとって、「ありふれた幸せ」など人生のどん底に他ならない。「落ち込めれば」とは、落ち込むことができれば、ということだから、肩を抱き、辛い現実に耐え抜いた挙句、ありふれた幸せたる人生のどん底に、落ち込んで馴染めれば「いいのだけれど」と悲観的な物言いをする。もし「落ち込」むことが出来なかったら、もう死ぬしかない、という負の決意すら感じさせるのである。
♪今日も一日が過ぎてゆく♪
井上氏が描く、手を出して奪い取れたらいいのに、と前向きな夢を見る男と、小椋氏が書いた、少女が他の男と交際し生きる希望を失いかけてしまった男。二人は全く違う若者であるが、結局どうすることもできず、毎日が過ぎていく。そのうち年も進み、気がついたら老いているのである。井上青年は略奪愛など結局不可能だったし、小椋青年も同様に臆病であるから、死には踏み切ることができなかった。
「白い一日」は、途中こそとんでもなくシモい話だが、終わってみれば普通の若い男たちが経験するような青春群像であった。つまり、冒頭に掲げた一般的な評価が正しかったということである。
ただし、男の主観で語られる「一日」とは、ストーキングとオナニーに終始する「一日」であるから、そうなると「白い」は処女と精液を指している。どシモいダブルミーニングである。このことは肝に銘じて置かれたい。